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97年秋、ヒーロー小説を書けなくなった僕だが藤子・F・不二雄的な空想小説の限界にすぐ気づいた。そこで「あぐり」で知った辻潤のことをすぐ調べ始めた。
今日のヒーロー情報
1919年(大正8年)
●春ごろ
辻潤35歳、本郷の栄林館に下宿
(夏、下宿料滞納で追い出される)。
辻は作家として成功した面もあるので山頭火や井月たちよりヒーロー性が弱いが最後は働かず餓死したとも言われる。その生きざまは見事だ。
今日のヒーロー読書
辻潤の「絶望の書」を読む。いよいよ辻潤と同じ餓死の結末が見えてきた昨今、彼の書を読み彼のことを知らずにはいられない。
1903年1月、彼は明治の思想家・北村透谷の全集を読んでいた。この時、辻は18歳。彼にとってのヒーローは透谷だったのだろう。彼と同い年ぐらいの時といえば1996年、僕は漫画の「おーい!竜馬」に夢中で、物語に描かれていた竜馬のように平和革命大政奉還を成し遂げ、はるかなる世界へ出航することを夢見ていた。北村透谷を知ったのは2006年秋に書店で本田透の「萌える男」を読んだ時だった。本田によれば透谷は、1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明した。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は島崎藤村や木下尚江に衝撃を与えたという。そして1888年、数寄屋橋教会(現・日本基督教団巣鴨教会)で洗礼を受けた。同年、石坂昌孝の娘、石坂ミナと結婚。日本に恋愛という概念を広めた人だったが、理想どおりに行かない現実の恋愛に絶望して自殺した、とあった。しかし別の情報によれば、イギリスから来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトと親交をふかめ、その影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴し、日本平和会の結成(1889年)にも参画、機関誌『平和』にも寄稿した。しかし、日清戦争前夜の国粋主義に流れる時勢も反映したのか、次第に精神に変調をきたし、評論『エマーソン』を最後に1894年、芝公園で首吊り自殺したともある。25歳だった。
透谷を追いつめたのが国粋主義だとしたら史実の坂本龍馬も国粋主義者である。いつもなら18歳の時から岡本太郎・種田山頭火を知っていれば、と書くところだが、もうそんな過ぎ去った日を思ってもむなしいだけだ。辻潤になった自分を受け入れるのみ。辻潤は与えられたものは食べ与えられなければ何も食べず餓死したという。僕もそうありたいとは思っている。
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導入パラグラフはどんなコンテンツがあるのか読み手にイメージしてもらうことができます。ブログ記事の項目リストでもいいでしょう。フォーマットを使い分ければ、テキストが読みやすくなります。フォーマットについては続きをお読みください。